日本の建築物は、直線的な材料である柱と梁を組み立ててつくられたものが多くあります。
柱と梁を組み立てる工事において、高いところで作業を行う場合は、足場が必要となります。
古くから建築物を建てる場合には、当然足場を組んで作業をしたことでしょう。
今回は、足場の歴史について解説します。
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▼ 目次 |
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1.そもそも足場とは何か |
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2. 足場工事が始まったのはいつから? |
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3. 足場の歴史 |
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3-1. 飛鳥~奈良時代 |
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3-2. 平安時代 |
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3-3. 鎌倉時代 |
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3-4. 江戸時代 |
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3-5. 近代 |
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4. まとめ |
1.そもそも足場とは何か
そもそも足場とは、人の足が乗る場所のことです。
建設現場では、足場に乗って作業者が移動や作業を行います。
人が作業や移動をするために、ある程度の強度は必要ですが、建設工事が終了すると解体されるため、
建物に使われる柱や梁とは違って、簡易的なつくりとなっています。
足場に求められる機能として、人が乗って作業や移動を行う以外に、組み立てやすく解体しやすいことが挙げられます。
2.足場工事が始まったのはいつから?
足場工事がいつから始まったという明確な記録がありません。
明確な記録はありませんが、現存する建築物から推測されています。
現存する日本最古の建築物は、奈良県にある法隆寺です。
法隆寺は世界最古の木造建築で国宝であり世界遺産でもあります。
法隆寺には、高さ32.5メートルの五重塔があり、建築時には大規模な足場を組んで工事が行われたことでしょう。
そのため法隆寺が建てられた飛鳥時代には、本格的な足場工事が行われていたと推測されています。
しかし日本の弥生時代には、高床式倉庫が多く建てられたとされており、それらを建築する時にも足場が必要であったと推測されます。
高床式倉庫は床が高い位置まで上げられているため、梁や屋根などはさらに高い場所で作業しなければなりません。
そのため、法隆寺建築以前から足場工事が行われていた可能性はあるでしょう。
3.足場の歴史
現存する日本最古の建築物である法隆寺が建立された時代から足場の歴史を振り返ってみましょう。
・飛鳥~奈良時代
・平安時代
・鎌倉時代
・鎌倉時代
・近代
3-1.飛鳥~奈良時代
西暦700年代の奈良時代の遺構から、建築時の足場跡と見られる「足場穴」が発見されています。
奈良時代の建築物は、地面に直接柱を立てるのではなく、礎石の上に柱を立てるようになりました。
礎石を柱の下に設置することで、より大きな重量を柱で支えられるようになり、
高さがある大きな建物を建てやすくなりました。
建物が高くなると高所での作業が必要となり、作業用の足場が必要となったのです。
足場の材料は主に竹や木材で、日本では竹や木材が豊富にあったので、足場工事が普及したと考えられています。
また奈良時代には清水寺も建てられており、「清水の舞台」の舞台をつくる時にも大規模な足場が組まれていたことでしょう。
3-2.平安時代
西暦700年代後半は、平安時代になります。
平安時代になると寝殿造りと呼ばれる建築物が多くつくられました。
寝殿造りは、高い建物ではありませんが、東、西、北に対屋 (たいのや) を設け、廊でつなぐ構造となっています。
決して高くはありませんが、柱に長い梁を組むため、横方向に長い足場が必要です。
平安時代においても、足場工事は行われていました。
平安時代に書かれた書物として、竹取物語があります。
この竹取物語の中に、「高いところに登る」という意味の「麻柱(あなない)」という言葉が使われています。
「まめなる男二十人ばかり遣はして、あななひに上げすゑられたり。」と詠まれており、
意味は「忠実な家来の男を二十人ばかり派遣して、高い足場を組んでその上に登らせた。」ということだそうです。
[参考:日本建築史の研究・福山敏男/総芸舎](平城宮、山田寺他)
当時多くの作業者が高い足場の上で、梁の組み立て作業を行っていたことが想像できるでしょう。
3-3.鎌倉時代
西暦1100年代後半は、鎌倉時代になります。
鎌倉時代には、仏教に多くの宗派が生まれ、建築の分野にも様々な変化がありました。
鎌倉時代の代表的な建物として、東大寺の南大門があります。
東大寺の南大門は、高さが25.46メートルあり、国内最大の山門です。
南大門は中国から伝わった建築様式で建てられており、
上層と下層の両方に屋根がある二重門と呼ばれる2階建ての門です。
南大門には21メートルもある柱が18本使われていて、柱は屋根裏まで達しています。
南大門の柱や梁を組み上げる時に、足場は利用されていたでしょう。
3-4.江戸時代
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp
西暦1600年代は、江戸時代になります。
奈良時代から1000年近く経ちますが、足場は長い丸太を使ったものに変わりはありません。
徳川家康が江戸幕府を開き、多くの人たちが江戸に集まってきました。
江戸には様々な仕事が増え、足場の組み立てや足場の上で作業する人たちのことを鳶職と呼ぶようになったのも江戸時代です。
鳶職は高い場所で作業を行うこと以外に、火災の現場でも活躍しました。
鳶職は普段は建築現場にいるので、建物の構造に詳しいです。
江戸時代の消火活動は、破壊消火と呼ばれるように、火を消すのではなく延焼が広がらないように、
延焼先となる建物を先回りして解体しました。
鳶職は火災が発生するといち早く現場に行って、延焼先の建物を手際よく解体します。
江戸では人口増加とともに鳶職も多くいました。大工、左官、鳶職は「華の三職」と言われて、人気の仕事だったそうです。
消火活動も行っていた鳶職が着ていたものを火事羽織と呼んでいました。
火事羽織は木綿地を刺し子にしたもので、表はシンプルな籠目模様(かごめもよう)ですが、
裏地には派手な描絵模様(かきえもよう)が描かれています。
火消し作業が終わると、羽織を裏返しにして、
地味な籠目模様から派手な描絵模様を見せびらかしながら江戸の町を練り歩いたと言われています。
3-5.近代
日本の足場の歴史が大きく変わったのが、西暦1900年代中期です。
明治時代以降、日本に海外の発展した技術が多く伝わりました。
その中でも製鉄技術については海外の生産性の高い技術によって、鉄が大量に生産できるようになりました。
鉄を大量に生産できるようになると、それまで木材を材料としていた製品が、丈夫な鉄製に変わっていったのです。
そして1954年、東京大手町にある東京産業会館での建築工事で、日本で初めて鋼管の足場が用いられました。
この時期から丸太の足場から鋼管の足場に変わってきました。
また足場の種類もくさび式足場や枠組み足場など、工事現場に合わせた足場が組めるようになったのです。
長年利用されていた丸太の足場ですが、丸太そのものの上を歩いていたため、作業者は不安定な状態で作業を行っていました。
そのため、足場からの転落事故も頻繁に発生していたのです。
丸太の足場から鋼管の足場に変化したのに合わせて、足場に幅を持たせるようになったのもこのころから行われるようになりました。
現在足場には手摺や中さんの設置が義務付けられており、安全で安心な足場へと発展したのです。
4.まとめ
日本の足場は日本建築の歴史と共に歩んできました。
世界的には、紀元前2500年にエジプトのピラミッドの建設で足場が利用されていたという説があり、
紀元前214年に中国では万里の長城の建設でも足場が使われていたと言われています。
日本の建築技術の多くは中国から伝来しており、大きな影響を受けて発展してきました。
史実としての記録はありませんが、日本でも弥生時代くらいから足場を使った建設工事が行われていたことでしょう。
昭和初期までは、丸太の足場に大きな変化はありませんでしたが、
現在では軽くて丈夫かつ自由に組める便利な足場が利用されています。
建築技術は今後も進歩が期待されているため、新たな建築技術にあった足場の発展を期待しましょう。